reiki ikowaselu

まず初めに、自分で自分を癒せるようになること。そして、その癒しを自分以外にも行えるようになること。
reikiで心を癒せば体が癒され、体を癒せば心も癒される。癒された先にあるのは、本来の自己で自由に自然体で過ごせる自分。全ディグリーを2日間で「伝授」するワークショップを首都圏各地の会場で開催します。             1名様からお受け付けしています。会場となるサロンは、ご希望があれば、希望地にそってご用意いたします。
西洋式臼井レイキの出張式教室です。お気軽にお問合せ下さい。

2025.01.10 Friday

ブログ

2024-12-10 14:22:00

複雑な思い

最近、優しさや思いやりについて

 

とても考えてしまう時間がふえました。

 

企業内で決定したサービスは、そこで働く方々の

 

仕事となっていきます。

 

でも、サービスを提供することでまた来てほしい

 

喜んでほしいというのはとても自然な考えですし

 

思いです。

 

でも、実際には個人の思いやりや優しさという親切心が

 

サービスを提供しているというかサービスになっていると

 

思うのです。

 

そして、個人と個人が接する業務の場合

 

その方個人の思いやりや考えがサービスという行動に

 

なっている気がします。

 

とても、ありがたいものと感じてこなかった自分

 

当たり前に受取り喜んでこなかった自分がいました。

 

 

とここまでは、いいのですが

 

自分の身体を痛めてまでやる必要って本当にあるのだろうか?

 

という本来は聞かなくてもわかるだろうという疑問です。

 

または、痛むところが完治していないのに、それを行い続ける

 

その心はなんなのだろう?

 

こんなことを考えると、私の中のあーでもないこーでもないが

 

止まらなくなっていました。

 

誰かがやっているから、それは世間では優しさと思われている

 

親切なことだし、などなど同調圧力という自我の大好きな力

 

の源がありました。

 

私達の肉眼で確認しているものはすべて有限です。

 

今の名前を持った人生時間も有限です。

 

肉体も有限です

 

無理をすれば壊れます。

 

自分が本当にいいと思って自然に行えない親切なら

 

それは本当にしなくてはならないことなのでしょうか?

 

親切が自然でその人の内から湧き上がっているのは

 

その人がその人の内で無限のPowerと繋がっているから

 

だと思うのです。

 

親切の内容は、その時その時の個人で違っていていいと思うのです。

 

そして、誰かと同じ分量だけその行いができないことは

 

私は、それでいいと思うのです。間違いでもなんでもないと

 

だってみんなそれぞれの持ち味があるのが私達の世界ですよね

 

優しさや思いやりの内容だってみんながそれぞれ集まって

 

完成されていく素晴らしさがあると思います。

 

それに、親切心て自発的なもの

 

誰かの中に自分を目覚めさせるような発見があり

 

それを取り入れるのならまだしも

 

みんながやっているからやらなきゃは

 

うーん、頷けない。

 

まだまだ、このことは続きそうです。

 

 

皆様どうかご自愛ください

 

自分をうーんと労ってあげてください。

 

貴方は貴方のままですべての価値が備わっているのだから。

これが自分にとって真実であることを受け入て。

 

私もそれを忘れないよう気をつけます。

 

 

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