臼井式レイキの教室です。マンツーマンですので、心ゆくまでレッスンをして頂くことができます。
レイキヒーリングも行っています。
教室もヒーリングサロンも首都圏各地の中から選んでいただけます。
皆様
いかがお過ごしでしょうか
やっと激しい暑さも過ぎ去ったという感じですね。
今年はサンマがお手頃で、ぷくぷく太っているのが
嬉しいですね。
私の日常は目まぐるしくバタバタと追われるように
過ごしていたように思います。
でも、変ですね、振り返ってみると起きたことは
ほんの少しのことだけのようです。
今地球ごと愛の次元へ移行している只中ですね。
これまでは、恐れベースの次元
愛も神も同義語ですがどちらも否定することが
可能な次元
もとより、そもそもそれがこの私たちの始まりでした。
これからは愛がベースになるのでこれまでの恐れベース
では、うまくいかないことが起きてくるようです。
これは、アセンションという概念を受け入れる
受け入れないにかかわらず皆が関わっていることです。
愛を選ぶことは、元来の自分を選ぶこと
元来の自分を選ぶには、自分がしてしまったという
自分の受け入れられない自責をそのまま赦して受け入れること
責めても仕方がないのです。
ここでの体験自体が幻想であるなら
幻想になにをしても「暖簾に腕押し」ですね。
昨日見た夢がリアルに感じる腹立たしい夢だった
としても夢に戻って文句言ってやろうとか
実際にあって「あのさー、昨日夢の中でさ」
とかきっと皆さんしないですよね!!
そう、そしてこの眠るときに見る夢はこのくらい
何もしない、思入れもしないから、ほぼ同じ夢を
見ないのです。逆に恐怖に煽られる場合は同じ夢を
繰り返し見たりしますよね。
これは、この世界の赦しに必要となる見方なので
皆様も一度自分の見た夢、どうだったかぜひ考えてみて
くださいね。
愛を受けている子が自由にスクスク育つように
愛が人を変えるように
私たちの自己も愛だけが必要です。
私たちも、私たちの両親もジジババもその前も
ずーっとずーっとどの命も、生命の親は愛です。
同じ一つの愛だけが生命の源です。
そして、その愛だけが、私たちを真に癒やし
間違いの訂正を可能とします。
どんなに信じられなくても、愛は常に私たちを
包んでいる。
だから
信じて受け入れてみよう
愛は私たちを一度も見捨てていないのだから。
貫いてみよう。
私たちに罪悪感なるものがなければ
痛みを感じることはないという。
そして、罪悪感は、敵か味方か攻撃か停戦か
をベースに危険か安全かを瞬で判断している。
罪悪感とは一体なんなのだろう
罪悪感はどうして私たちを自由にさせないのだろう
罪悪感の基盤は分離にある。
分離とは私たちが自分の源から離れているという
見放された、見離されていると感じる時に
神にも誰からも見離されたという感覚
繋がりを感じられない感覚
遮断されているという感覚
罪悪感はこの分離感を守るためにこれらの感覚を
あの手この手で感じさせる。
肉体的な痛みも精神的な痛みも時間がかかればかかるほど
理性から離れていく。
理性は痛みの原因を別の原因へとすり替えたりはしない
理性はその痛みが癒やされ消えていくことをわかっている。
理性から離れると、痛みは分離感を加速させる。
自分の平和が奪われていると感じたり
どうしてこんな痛みを感じなくてはいけないのかといらだったり
周りと比べて自分自身に対して低い価値判断を下してしまったり
これまでの自分がしてきたことに対する報いだと考えてしまったり
罪悪感の中に入り込んでしまう。
痛みは平安への攻撃で平安とは本来の私たちのことだ。
人である私たちが、攻撃的になってしまうとき責めている相手は
常に自分自身だ。
そして、攻撃的になっているときは、本当は何かを守ろうとしている
本当は、救われたいと思っている、でも誰も助けてくれなかったと思っている
本当は誰かにわかってほしいと思っている。
守ることが攻撃であることは完全に間違っている
でも攻撃は掘り下げてみてみると攻防だ
攻防は助けを求める呼び声以外のなんでもないという。
3.「主、言い給う、復讐するはわれにあり」という言葉は誤った
知覚の一つであり、それによって人は自分自身の「邪悪な」過去
を神のものとしてしまう。「邪悪な」過去は神とはなんの関係もな
い。神はそれを創造しなかった。また、それを維持することもな
い。神は懲罰など信じていない。神の心がそのように創造するこ
とはない。神はあなたの「邪悪な」行為を理由にあなたを責めた
りはしない。ましてや神がなあたの「邪悪な」行為を理由に私を
責めるだろうか。このような前提がいかにまったく不可能である
か、そしてそれがいかに全面的に投影から生じているかを、必ず
しっかりと認識するようにしなさい。この種の誤りが、神がアダ
ムを拒絶して、彼を楽園から追放したという信念や、その他の関
連する多数の誤りの原因となっている。これはまた、私があなた
を間違った方向へ導いていると、あなたがときどき信じるかもし
れない理由でもある。私は歪曲することがほとんど不可能な言葉
を使うように極力努めてきたが、あなたがそう望むなら象徴を曲
解することはいつでも可能である。
4.犠牲とはまったく神の知らざる考えである。それは恐れのみ
から生じるものであり、恐れる者たちは凶暴になり得る。いかな
る形であれ犠牲を払うことは、「汝らの父の慈悲なる如く、汝らも
慈悲なれ」という私の指示に背くことである。多くのキリスト教
徒にとって、これが自分自身に当てはまると悟ることは、難しい
ことであった。良き教師は自分の教え子たちを決して威嚇しない。
威嚇することは攻撃であり、それにより、教師が教えていること
が拒否されてしまう。その結果、学びは失敗に終わる。
奇跡講座 テキスト第三章 1-3/1-4
1.いまだに残る奇跡にまつわる恐れを消し去るには、
もう一点、完全に明らかにしておくべきことがある。贖罪
を確立したのは、十字架刑ではなく復活である。数多くの
誠実なキリスト教徒がこの点を誤解してきた。欠乏への信
念に囚われていない者であれば、このような間違いを犯す
ことはあり得ない。 確かに、 転倒した観点から十字架刑
を眺めるなら、あたかも神が、神の子のひとりが善良であ
ったという理由で受難することを容認し、それを奨励さえ
したかに見える。このとりわけ残念な解釈は投影から生じ
たものであるが、それにより数多くの者たちが神を激しく
恐れるようになった。このような反宗教的概念が、多くの
宗教に入り込んでいる。だが、真のキリスト教徒ならここ
で立ち止まって、「いったい、このようなことがあり得るだ
ろうか」と自問するはずである。神ご自身の言葉が、神の
子にふさわしくないと明確に述べているようなことを、神
ご自身が考えたりするだろうか。
2.最良の防衛は、常に相手の立場を攻撃することではなく、
真理を擁護することである。判断基準の枠組み全体は逆転さ
せなければ正当化できないような概念であれば、それを受け
入れるのは懸命ではない。このようなやり方は小規模に適用
された場合は苦痛を伴い、大規模な場合にはまぎれもなく悲
劇的となる。迫害というものは、神ご自身が救済のために神
の子を虐げたというような、恐ろしく誤った知覚を「正当化」
しようとする結果になることが多い。このような言葉自体が
無意味である。これを克服することがこれまでとりわけ難し
かった理由は、その誤り自体は他の誤りよりも訂正が難しい
わけではないが、多くの人々が、そこに防衛としての傑出し
た価値があると見て、それを手放したがらなかったからであ
る。もう少し穏やかな例をあげれば、親が子供を打擲(ちょ
うちゃく)しながら、「こうするとき、お前よりも、私のほ
うがもっと辛いのだ」と言うことで、それが免責されるよう
に感じる、というものがある。私たちの父なる神が本当にこ
のような考え方をすると、あなたには信じられるのだろうか。
このような考え方のすべてが一掃されることが極めて重要な
ので、私たちはこの種の考えがあなたの心の中に微塵も残ら
ないようにしておかなければならない。私はあなたの悪行の
ために「処罰」されたのではない。いかなる形のものであれ、
この種の歪曲に冒されるなら、贖罪が教えている完全に柔和
なレッスンは失われてしまう。
by 奇跡講座 テキスト第三章 1-1〜テキスト第三章 1-2
肉体の目を通して見ることの反対がキリストの心眼であ
り、それは、弱さではなく強さを、分離ではなく一致を、
恐れではなく愛を映し出す。肉体の耳で聞くことの反対
は、神を代弁する声を介した 親 交 であり、その声であ
る、聖霊は、私たち一人ひとりの内に宿っている。 その声は
か細くて聞き取りにくいもののように思われているが、そ
の理由は、卑小な分離した自己を代弁する自我の声のほう
がずっと大きいかのように感じられるからである。これは
実際には逆である。聖霊は間違えようのない明瞭さと、圧
倒的な魅力をもって語る。自らを肉体と同一視することを
選択しない者であれば、聖霊の解放と希望のメッセージが
聞こえないということはありえない。また、哀れな自画像
と引き換えに、喜んでキリストの心眼を受け入れられない
はずがない。
キリストの心眼は聖霊の賜物であり、分離という幻想や、
罪・罪悪感・死の実在性を信じる信念にかわるものとして、
神により用意されている選択肢である。それはすべての知
覚の誤りに対する一なる訂正であり、この世界が依拠して
いる相対立するように見えるものごとの間の和解である。
その優しい光はあらゆるものを新しい視点から見せ、知識
から生じる思考体型を映し出し、神のもとに戻ることを可
能にするだけでなく、不可避とする。ある者に対し他者か
ら為された不正義と見なされてきたことは、今や助けや融
和を求める声となる。罪や病気や攻撃は、優しさと愛によ
る癒しを求めている誤まった知覚と捉えられる。攻撃の無
いところに防衛は不要なので、防衛は放棄される。私たち
が神へ向かうとき、兄弟は共にその旅をしているので、彼
らの必要は私たちの必要となる。私たちがいなければ、彼
らは道に迷ってしまう。彼らがいなければ、私たちは自ら
の道を決して見出すことはできない。
赦しの必要性など想像することもできない天国にあって
は、赦しは知られざるものである。しかしこの世界におい
ては、赦しは私たちの犯したすべての間違いに必要な訂正
である。赦しを差し出すことが、私たちが赦されるための
唯一の方法である。それが、与えることと受け取ることは
同一であるという天国の法則を反映するからである。天国
とは、神に創造されたままのすべての神の子らの自然な状
態である。それが永遠に彼らの実相である。忘れられてき
たからといって、そうであることに変わりはない。
赦しは私たちが思い出すための手段である。赦しによっ
て世界の思考は逆転する。赦された世界は天国への門とな
る。なぜなら、その慈悲により、私たちはついに自らを赦
すことができるようになるからである。誰のことも罪悪感
の虜にせずにおけば、私たちが自由になる。すべての兄弟
の内にキリストを認めることにより、私たちは自らの内に
キリストの臨在を認識する。誤った知覚のすべてを忘れ、
過去からの何ものにも引き止められないとき、私たちは神
を思い出すことができる。ここから先にはもう学びはない。
私たちの準備が整ったとき、私たちが神のもとに戻るのに
必要な最後の一歩を、神ご自身が踏み出してくれるだろう。
親交 ➔ コミュニケーション
心眼 ➔ ビジョン
by 奇跡講座 上巻 まえがきより P.07〜P.08