臼井式レイキの教室です。マンツーマンですので、心ゆくまでレッスンをして頂くことができます。
レイキヒーリングも行っています。
教室もヒーリングサロンも首都圏各地の中から選んでいただけます。
もし、この世界が欠乏から始まっていると知ったら
これを読んでくださっている方はどう思われるだろう
それとももう、そんなことはすでに学習済みだろうか
欠乏は、神の被造物の中で存在しない一方で、あなた
が作り出したものの中に存在することはきわめて明ら
かである。実はこれが両者の間の本質的相違である。
欠乏が暗示しているのは、あなたは今の状態とは何ら
かの形で異なった状態にいるほうがましだということ
である。「分離」すなわちこれが「楽園喪失」という
ことの意味であるが、それが起こるまでは、何も欠け
てはいなかった。必要というものは存在していなかっ
た。あなたが自分自身から奪ったときにのみ、必要が
生じる。あなたは自分で細かく定めた必要の序列に従
って行動する。これは、さらに自分が何であるかにつ
いてのあなたの知覚に左右される。
T 1-Ⅵ-1-3
欠乏と聞くとつい物質的なお金とかお金とかお金とか
もしくはお金で交換できる何かを思い浮かべてしまう
けれどここでの欠乏はそこへ追いやった自分の心、考
え方、知覚の仕方すべてのことで、自己価値感という
のか自己評価もここに含まれる。地位や名声が高けれ
ば、欠乏とは無縁なのかというとそうではなく地位や
名声も真の自己価値感に見合わなければ、虚しさや、
攻撃性を強めてしまう。自分にはない、足りないと
思うとそれを得るために高圧的な態度にもでる。
母を例にあげると、年齢的に認知症的な発言もあり過去の
記憶が食い違っていることもあり、でも私たちはこんなこ
とはなんの問題にもしていない。一緒に共有できることが
沢山あり、私たちがカバーできることをしていればなんの
問題ないからだ。
そんな母は、最近奇妙なことを話していた。美容室で髪を
洗われているとき、
美容師さん「えぇ、そうなんですか」
母 「孫が」・・・「孫がいて」・・・「息子が」・・・
美容師さん 「あぁ、いいですねぇ」
母 「息子は」・・「孫も」・・・
美容師さん「お孫さんはおいくつなんですか」
母 「もう小学校へ上がるくらい」
私と妹は顔を見合わせた。
なんせ我が家には、息子も孫ももういない。
いたけど、とおの昔にこの世を去っている。
孫に関しては、御位牌はあるが、まだ人間の形がようやく
できたばかりで、これからという時までだったため、母はこれまで
孫のことを外で口にすることはなかった。
息子についても母にとっては神を捨てるくらい納得のいかない事実で
やはり兄についても口に出すことはなかった。
私が、ここで見たものは、心の中にある確かな欠乏感だけだった。
私は、私には、ない。
私にはなかった。
私にはできなかった。
救えなかった。
助けられなかった。
私たちが本気でそう思う時、それらは自分への烙印となるのと同時に
自分の神への烙印にもなり
神は確かに存在しない、あの時神様は私のことを助けてくれなかった、
私のお願いを聞いてくれなかったという思いを
信念に変えてしまう。そして、これは心に剥奪感を植え付ける。
では、これをどうすれば癒せるのだろう
本質的な癒しは、私たちに与えられている、聖なる霊と神のみが
本当にぶっ壊れた分離感を癒す。
私たちは、スーパーナチュラルな理性に立ち戻り、それを
あるがままに見たときに、自分とその人の真実だけを求める
ことができる。そして、真実から離れているものは、すべて
赦しの対象だ。望まない幻想の中で、幻想に加担し、憐れん
でも、祈りも、ヒーリングもうまくはいかない。
なぜなら、憐れみにふさわしい人なんてこの世には一人も
存在しない。
ただ、見るべき時に見るべきものをみた
レイキで言えば、ひびき(病の真の大元)の大元が浮いてきたに
すぎない。
そしてそれは、間違いを訂正するため
癒されるために。
人が何を選びなおすか、何をやり遂げるのか、どんな学びを
もってここにきているのか私たちが肉体に密接につながって
いる限りそれを直視することはほぼ不可能なことだと思うの
です。この世界の幻想からすべて解除されたとき私たちは、
私たちはとても簡単に完璧に「そうか!」と「そうだった
のか」と理解してしまうのでも今は良しとしておきます。
欠乏感にはご用心というお話でした。
さー、今日はこれからヒーリングに入ります。
ikowaseruの遠隔レイキにご感心のある方は
ストアーズへお越しください。
どんなことがヒーリングの対象になるの?というご質問や
ご相談などもお問い合わせからいつでもお問い合わせください🌈
私たちに罪悪感なるものがなければ
痛みを感じることはないという。
そして、罪悪感は、敵か味方か攻撃か停戦か
をベースに危険か安全かを瞬で判断している。
罪悪感とは一体なんなのだろう
罪悪感はどうして私たちを自由にさせないのだろう
罪悪感の基盤は分離にある。
分離とは私たちが自分の源から離れているという
見放された、見離されていると感じる時に
神にも誰からも見離されたという感覚
繋がりを感じられない感覚
遮断されているという感覚
罪悪感はこの分離感を守るためにこれらの感覚を
あの手この手で感じさせる。
肉体的な痛みも精神的な痛みも時間がかかればかかるほど
理性から離れていく。
理性は痛みの原因を別の原因へとすり替えたりはしない
理性はその痛みが癒やされ消えていくことをわかっている。
理性から離れると、痛みは分離感を加速させる。
自分の平和が奪われていると感じたり
どうしてこんな痛みを感じなくてはいけないのかといらだったり
周りと比べて自分自身に対して低い価値判断を下してしまったり
これまでの自分がしてきたことに対する報いだと考えてしまったり
罪悪感の中に入り込んでしまう。
痛みは平安への攻撃で平安とは本来の私たちのことだ。
人である私たちが、攻撃的になってしまうとき責めている相手は
常に自分自身だ。
そして、攻撃的になっているときは、本当は何かを守ろうとしている
本当は、救われたいと思っている、でも誰も助けてくれなかったと思っている
本当は誰かにわかってほしいと思っている。
守ることが攻撃であることは完全に間違っている
でも攻撃は掘り下げてみてみると攻防だ
攻防は助けを求める呼び声以外のなんでもないという。
3.「主、言い給う、復讐するはわれにあり」という言葉は誤った
知覚の一つであり、それによって人は自分自身の「邪悪な」過去
を神のものとしてしまう。「邪悪な」過去は神とはなんの関係もな
い。神はそれを創造しなかった。また、それを維持することもな
い。神は懲罰など信じていない。神の心がそのように創造するこ
とはない。神はあなたの「邪悪な」行為を理由にあなたを責めた
りはしない。ましてや神がなあたの「邪悪な」行為を理由に私を
責めるだろうか。このような前提がいかにまったく不可能である
か、そしてそれがいかに全面的に投影から生じているかを、必ず
しっかりと認識するようにしなさい。この種の誤りが、神がアダ
ムを拒絶して、彼を楽園から追放したという信念や、その他の関
連する多数の誤りの原因となっている。これはまた、私があなた
を間違った方向へ導いていると、あなたがときどき信じるかもし
れない理由でもある。私は歪曲することがほとんど不可能な言葉
を使うように極力努めてきたが、あなたがそう望むなら象徴を曲
解することはいつでも可能である。
4.犠牲とはまったく神の知らざる考えである。それは恐れのみ
から生じるものであり、恐れる者たちは凶暴になり得る。いかな
る形であれ犠牲を払うことは、「汝らの父の慈悲なる如く、汝らも
慈悲なれ」という私の指示に背くことである。多くのキリスト教
徒にとって、これが自分自身に当てはまると悟ることは、難しい
ことであった。良き教師は自分の教え子たちを決して威嚇しない。
威嚇することは攻撃であり、それにより、教師が教えていること
が拒否されてしまう。その結果、学びは失敗に終わる。
奇跡講座 テキスト第三章 1-3/1-4
1.いまだに残る奇跡にまつわる恐れを消し去るには、
もう一点、完全に明らかにしておくべきことがある。贖罪
を確立したのは、十字架刑ではなく復活である。数多くの
誠実なキリスト教徒がこの点を誤解してきた。欠乏への信
念に囚われていない者であれば、このような間違いを犯す
ことはあり得ない。 確かに、 転倒した観点から十字架刑
を眺めるなら、あたかも神が、神の子のひとりが善良であ
ったという理由で受難することを容認し、それを奨励さえ
したかに見える。このとりわけ残念な解釈は投影から生じ
たものであるが、それにより数多くの者たちが神を激しく
恐れるようになった。このような反宗教的概念が、多くの
宗教に入り込んでいる。だが、真のキリスト教徒ならここ
で立ち止まって、「いったい、このようなことがあり得るだ
ろうか」と自問するはずである。神ご自身の言葉が、神の
子にふさわしくないと明確に述べているようなことを、神
ご自身が考えたりするだろうか。
2.最良の防衛は、常に相手の立場を攻撃することではなく、
真理を擁護することである。判断基準の枠組み全体は逆転さ
せなければ正当化できないような概念であれば、それを受け
入れるのは懸命ではない。このようなやり方は小規模に適用
された場合は苦痛を伴い、大規模な場合にはまぎれもなく悲
劇的となる。迫害というものは、神ご自身が救済のために神
の子を虐げたというような、恐ろしく誤った知覚を「正当化」
しようとする結果になることが多い。このような言葉自体が
無意味である。これを克服することがこれまでとりわけ難し
かった理由は、その誤り自体は他の誤りよりも訂正が難しい
わけではないが、多くの人々が、そこに防衛としての傑出し
た価値があると見て、それを手放したがらなかったからであ
る。もう少し穏やかな例をあげれば、親が子供を打擲(ちょ
うちゃく)しながら、「こうするとき、お前よりも、私のほ
うがもっと辛いのだ」と言うことで、それが免責されるよう
に感じる、というものがある。私たちの父なる神が本当にこ
のような考え方をすると、あなたには信じられるのだろうか。
このような考え方のすべてが一掃されることが極めて重要な
ので、私たちはこの種の考えがあなたの心の中に微塵も残ら
ないようにしておかなければならない。私はあなたの悪行の
ために「処罰」されたのではない。いかなる形のものであれ、
この種の歪曲に冒されるなら、贖罪が教えている完全に柔和
なレッスンは失われてしまう。
by 奇跡講座 テキスト第三章 1-1〜テキスト第三章 1-2
肉体の目を通して見ることの反対がキリストの心眼であ
り、それは、弱さではなく強さを、分離ではなく一致を、
恐れではなく愛を映し出す。肉体の耳で聞くことの反対
は、神を代弁する声を介した 親 交 であり、その声であ
る、聖霊は、私たち一人ひとりの内に宿っている。 その声は
か細くて聞き取りにくいもののように思われているが、そ
の理由は、卑小な分離した自己を代弁する自我の声のほう
がずっと大きいかのように感じられるからである。これは
実際には逆である。聖霊は間違えようのない明瞭さと、圧
倒的な魅力をもって語る。自らを肉体と同一視することを
選択しない者であれば、聖霊の解放と希望のメッセージが
聞こえないということはありえない。また、哀れな自画像
と引き換えに、喜んでキリストの心眼を受け入れられない
はずがない。
キリストの心眼は聖霊の賜物であり、分離という幻想や、
罪・罪悪感・死の実在性を信じる信念にかわるものとして、
神により用意されている選択肢である。それはすべての知
覚の誤りに対する一なる訂正であり、この世界が依拠して
いる相対立するように見えるものごとの間の和解である。
その優しい光はあらゆるものを新しい視点から見せ、知識
から生じる思考体型を映し出し、神のもとに戻ることを可
能にするだけでなく、不可避とする。ある者に対し他者か
ら為された不正義と見なされてきたことは、今や助けや融
和を求める声となる。罪や病気や攻撃は、優しさと愛によ
る癒しを求めている誤まった知覚と捉えられる。攻撃の無
いところに防衛は不要なので、防衛は放棄される。私たち
が神へ向かうとき、兄弟は共にその旅をしているので、彼
らの必要は私たちの必要となる。私たちがいなければ、彼
らは道に迷ってしまう。彼らがいなければ、私たちは自ら
の道を決して見出すことはできない。
赦しの必要性など想像することもできない天国にあって
は、赦しは知られざるものである。しかしこの世界におい
ては、赦しは私たちの犯したすべての間違いに必要な訂正
である。赦しを差し出すことが、私たちが赦されるための
唯一の方法である。それが、与えることと受け取ることは
同一であるという天国の法則を反映するからである。天国
とは、神に創造されたままのすべての神の子らの自然な状
態である。それが永遠に彼らの実相である。忘れられてき
たからといって、そうであることに変わりはない。
赦しは私たちが思い出すための手段である。赦しによっ
て世界の思考は逆転する。赦された世界は天国への門とな
る。なぜなら、その慈悲により、私たちはついに自らを赦
すことができるようになるからである。誰のことも罪悪感
の虜にせずにおけば、私たちが自由になる。すべての兄弟
の内にキリストを認めることにより、私たちは自らの内に
キリストの臨在を認識する。誤った知覚のすべてを忘れ、
過去からの何ものにも引き止められないとき、私たちは神
を思い出すことができる。ここから先にはもう学びはない。
私たちの準備が整ったとき、私たちが神のもとに戻るのに
必要な最後の一歩を、神ご自身が踏み出してくれるだろう。
親交 ➔ コミュニケーション
心眼 ➔ ビジョン
by 奇跡講座 上巻 まえがきより P.07〜P.08