まず初めに、自分で自分を癒せるようになること。そして、その癒しを自分以外にも行えるようになること。
reikiで心を癒せば体が癒され、体を癒せば心も癒される。癒された先にあるのは、本来の自己で自由に自然体で過ごせる自分。全ディグリーを2日間で「伝授」するワークショップを首都圏各地の会場で開催します。 1名様からお受け付けしています。会場となるサロンは、ご希望があれば、希望地にそってご用意いたします。
西洋式臼井レイキの出張式教室です。お気軽にお問合せ下さい。
私達が悟るというのは
真実に目覚めていくこと
アセンションの意味は上昇、昇天と書いてあるけど
私達が日々真実に目覚め悟りに入っていくと
これまで封印してきた問題が浮上してくる事がある。
そうとは告げず、まるで新しい未知の問題のように。
今私達全体が、地球とともにアセンションの真っ只中にいる。
これを受け入れられる人もそうでない人も。
それにともない、自我の防衛も強くなっているように思う。
私達が問題を抱えていた場合
問題に対して、正しい質問ができた時は
問題の回答がやってくる。それは気付きとなって
問題が消滅するようになっている。
でも、自我のメカニズムで問題をすり替えられ、正しい質問が
できないと問題は残り続け、すり替えられた問題が大きくなって
しまっているように錯覚してしまう。
アセンションの最中はアセンション症状があらわれることがある。
それは、耳鳴りやブレインフォグやイヤーワーム、ADHDなどと
この世界のにある症状と告知していることが多い。
HSPやエンパスも例外ではない。
どちらの場合も、上昇の最中に在ることを受け入れることも
大事だと思う。
ただ、古い次元の地球を選んだとしても
私達一人ひとりの進化は止められない。
上記のようなお悩みを持つ方へも
reikiは優しく協力的に癒やします。
これが現実的かどうかよりも
なにが自分の現実になったらいいいと思うか
なにが自分の現実にあってほしいか
どういう現実の中で生きていきたいか
がすごく大事だと思う。
特にというわけではないけれど
ここぞという時
現実的かどうかでことを進めても
自我の「とりあえず今」という
先の見えない一時的な救済措置であることが
多いように思う。
自我はビジョンをもってはいない。
だから同じようなことを何度も何度も
何年たとうが繰り返す。
どんなに最新のブランドを身に着けても
おサイフをパンパンにしても
小さな我が子がいても
エナジーは嘘をつかない。
不幸を感じている心は
幸せなエナジー(周波数)を出すことはない。
本当に欲しいものはなにか
本当はどういう自分にたまらない嫌気を感じているか
人や状況を利用して感じる優越感はほんの一瞬
自我に使える唯一の一瞬の魔法
その魔法が解けると本当の自我の領域に
入っていくことになる。
そこから逃げるために、一瞬の魔法を求め続けるのか
その魔法を解除しめを覚まさせてくれる存在を
求めるのか
どういう現実になってほしいか
どういうことが現実になったら嬉しいか
その願いや希望が、本来の自分と一致するものなら
必ず幸せの福音とともにやってくると思う。
宇宙は平等だから。
そして神は子の不幸を援助しない。
Oリングテスト的な筋反射テストは
その人にとっての真実(信じている)ことが
筋反射テストの結果を出す。
自分にとって良いものは筋肉運動を強め
自分にとって良くないものは筋肉運動を弱める。
このテストの難しいところは、集合意識に染み込んだ
誤った見方、近しい存在から染み込んだその方の
真実、全体の雰囲気でも結果に影響してしまう。
Oリングテストや筋反射テストは
あくまでもその方にとって善いか否か
金属アレルギーの方は、金属に弱い反応を示す
でも、その方がアレルギーを克服していたり
その金属アレルギーの原因がなにか別のところにあると
思っていたりするとテストの結果が変わってくる。
私達が信じている真実の殆どのことは、この現実という
物理的な空間で繰り返し体験してきたことがベースだ。
実相とという真実は、この物理空間でどうあがいても
変わらないし変えることはできない。
それがどんなに信じられなくても
実感がわかなくても
ウェー信じられないと拒絶感100%でも
私達が人であるのは二次的な認識で体験だ。
人である前に私達は全ての生命の源(神/創造主/宇宙/愛)
その呼び名は幾通りもあるかもしれないけれど
その源に創造された。
今も変わらず、私達はその存在に愛でくるまれている。
その実相の愛は、人として生きている時も心を開けば
感じられるようになっている。
神から与えられているものは
神の在る方で受け取れる。
私達が実相の親へ不良娘、不良息子のように
家出をしたままではなかなかどうして受け取れない。
私の青春時代(?)不良はその時代ヤンキーと
といわれ、私はそのように生きていましたが
ずーっと子供の頃からいつも疑問に思って
いることがありました。
「本当はなんなんだろう」
本当はなに
本当はなんのため
本当のことってなに
本当はだれ
どこから来た
なんのために
なんでここにいる
このような疑問が胸と頭を
行ったり来たりしていました。
今も、自分からズレていることに気が付かないでいると
こんな疑問がふわりふわり浮き上がってきます。
でも、自分の本来の自己(周波数)に戻ってくると
自分の全てのセルフがピタッと一致して
そうそう思い出した!これこれ
という風になったりします。
私達には変えられない真実が在る。
私達が愛であること。
今日はこのへんで🌈
制限や節約を続けていたり
人に染まりやすかったり
自分に小さな喜びや情熱を
与えず今は我慢や先延ばしにしていると
記憶喪失ならぬ
周波数喪失となってしまう事がある。
自分の周波数から離れすぎると
何かに対してなんかよくわかんないとか
別になんでもいいとか
情熱が湧いてこない
ワクワクが来ないみつからない
何をしても無駄なように感じたり
虚しく感じたままだったりしてしまう。
本当に本来の自己を見失った状態だ。
自分がどうしたらワクワクするか
見失っているなら
誰かに対してもて成すように
自分をもてなしてみてください。
優しく大切に自分の心をを慈しもう!
私が私から離れないように。
一度そうだと思い込むとそれが間違いで
あっても正すのが難しいことがある。
思い込む → 信じてしまう
そうだと思って確定してしまう
思い込むには(信じてしまう)には
その前になんらかの個人的な定義があるはずだ。
肉体の機能優勢であると
自分はいつもこういう時こうだったから
今回もこうに違いないと疑うこともなく
瞬で定義し判断し決定してしまう。
自分で編み出した定義はまるで水面下で地道に
雪を踏み硬め氷にしていくような内面の作業だ。
放っておくと更に厚く頑丈になっていく。
そしてこの定義の氷は見張りながら防衛しながら
であればそれなりにつつが無く安全に歩くことができる。
思い込みが強く働く出来事はみな確信からくるものではなく
定義により証拠とし認識され「やっぱりね」と確定したものだ。
こんな証拠があるのだから絶対にそうだ!と確定(判断)し
決断をした。
そしてその決断の積み重ねが自分の個人的な
コンセプト(概念)となってしまう。
私達はこのコンセプトをベースに考えている。
このコンセプトは、自分がたゆまぬ見張りと防衛により
証拠を集めて造ってきただけのことはあり例えそれを
気に入っていなくても信じている。
というか既に信じてしまっている。
そして、この現実というスペースは私達の本来の強さを
弱めることで成り立っている。
本来の私達はとても強い
見張りも防衛も戦も必要としない。
だから、個人的なコンセプトはスペースを維持し
保つには欠かせない。
私達は誰もがみんな一様に幸せを与えられている。
それを多種多様に体験していく。
自分で造ったコンセプトは自分に試練を課してしまう。
でもそれは自分で固めた氷に過ぎない。
その氷は自分次第で溶かすことができる。
確かパンドラの箱の底にあったのは「希望」だ。
自分が間違っていたことを本当に認める意欲が
持てたらきっと希望がやってくる。
きっと希望が見えてくる。
決めつけデカのCMを觀すぎでしょうか
こんなことが無性に書きたくなりブログにアップしました。
私達も決めつけデカ辞退したままでいよう!
生きるのが楽になる方がいいもんね!