まず初めに、自分で自分を癒せるようになること。そして、その癒しを自分以外にも行えるようになること。
reikiで心を癒せば体が癒され、体を癒せば心も癒される。癒された先にあるのは、本来の自己で自由に自然体で過ごせる自分。全ディグリーを2日間で「伝授」するワークショップを首都圏各地の会場で開催します。 1名様からお受け付けしています。会場となるサロンは、ご希望があれば、希望地にそってご用意いたします。
西洋式臼井レイキの出張式教室です。お気軽にお問合せ下さい。
この世界に時間と空間があるように
時間と空間の「信念」が設置されている。
時間と空間がいいとかわるいとかそんなことではなく
私達が問題に深刻になり始めるとき
この時間と空間の認識しきれない信念は私達を問題に
縛り付けるよな錯覚を起こす。
問題からは手を引くのが一番だという教えをみなさんも
聞いたことはないだろうか?
問題を手放すという教えを。
問題の内容を問わず、問題は然るべき存在に預け
自分は手放す(ゆるす)。
そして、然るべき存在とは人間のことではない。
自分のガイドである、ハイヤーなセルフ
その預けた結果、この世界で必要な人があれば現れる。
時間は一分一秒とは存在していない。
空間も距離もなにも存在していない。
でもそれを通り越して表せるのは
見に見えない存在たちだ。
私達は見えるものしか見えない。
さわれるものしかわからない。
だからこそ私はなにもわからなくていいんだ
それでいいんだと思える。
問題は見張っても消えない
解決しない。
なので、怒りやすいのではなく
悲しみやすいのですな👺
そして傷つくきやすいのではなく
被害者としての任務をなぜか
まっとうしようとしてしまっているのですな👹
これは霊気の五戒の冒頭に出てくる一節だ。
古今東西、怒りについてはみんな何かしらの
教えを発している。
怒りとはなんだろう。
カッするとき、ムカつくとき、怒りで苛立つときは
感情で肉体を占拠されている。
この怒りの感情は、一切正しくなく我に返ったときに
あらゆる嫌悪感を提供してくる。
怒った自分や、関係していると思っているすべてに
その原因を押し付けたり、責任を持ってみたり。
でもこれにはなんの意味もない。
意味がないので怒りを繰り返してしまう。
怒りとは、そもそも存在しない造られた感情だ。
怒りは悲しみを隠すために、生物進化の過程で編み出された
弱肉強食を生きる生物が編み出した感情にすぎない。
傷ついた体を悲しんで立ち止まってしまったり、
家族が食べられて悲しんでいると、自分も食べられてしまうからだ。
怒りには、必ず理由がある。
怒りは全く正しくない
けれども怒りには必ず理由がある。
悲しみを隠すために怒りがつかわれているのは
時代が進化しても変わらない。
大事なことは、何を隠しているのか
何を悲しいと思っているのかではないだろうか。
心は神聖性を完全に失うことはありえない。
そして心は、完全に忘れたり、わかっていないわけではない。
自分が誰なのか、どこから来たのか
これがどれほど意味のないことなのか。
なので、怒り自体を嫌悪する人は本当に多い。
そして、それは誰の心も本当の自分を忘れ去っているのでは
ないという確かな証拠だ。
この世界は憎悪に満ちているのではなく
この世界は怒りに満ちているのではなく
この世界は疲弊している。
疲れ切っている
それはささやかな失敗をゆるせないくらい
疲れ切っている。
待ち望んでいた救いはやってこず
買っても、勝っても
着ても、食べても
笑うのに、全然幸せじゃない。
そのくらい疲れ切っている。
本来の自己のは喜びが備わっている。
不満や、嫉妬は本来の自己からかけ離れている。
心が狭くなってしまうのは、この世界から
何も得られないと感じているからではなかろうか?
わずかばかりの自力によって何かを得たと感じても
それは続かない。
その、「やったね」は継続しない
ますます心が狭くなる。
私達には、小さな自力のやったねが備わっているのではない。
人力を超えた「マジっすか!?」が自然な状態だ。