臼井式レイキの教室です。マンツーマンですので、心ゆくまでレッスンをして頂くことができます。
レイキヒーリングも行っています。
教室もヒーリングサロンも首都圏各地の中から選んでいただけます。
今年もめっぽう花粉が飛んでいるようですね
私は今年はじめて花粉アレルギーのような
症状を体験しました。
ただ、私はレイキが使えるので短い期間で
それは良くなっていったのですが
なんで、それを体験することになったのかな
と考えてみてもピンとくるものは何もなく
アレルギータンクもピンとこず次第に
自分が花粉症のようになったことも忘れて
過ごしていたところ妹がとんでもないことに
なってやってきました。
彼女は結構な花粉症で花粉症の症状が出る前から
市販薬で毎年対策をとっていました。
それが、まぶたを腫らし、目は充血して真っ赤に!
鼻もグズグズでなんと痛ましいことに!
そして、しばらくレイキを流したのですが
その最中にふと思い出したことがありました。
「そういえば、今年レンコン食べたっけ?」私
「いや今年っていうか最近レンコン全然食べてないね」妹
妹は私がレンコンが花粉症によく、花粉症状が出て
しまってからでもそれが良くなった人たちの話しを
聞いてから、レンコンを粉末にした物をお茶などに
混ぜて飲んだりレンコンも食べていて、私は
妹が結構な花粉症ということ
すっかり忘れていました。
妹も、レンコンのお茶も最近は
全く忘れ果て飲んでいないとのこと。
いざ八百屋さんへレッツゴー!
レンコンを買い、その日はレンコンコロッケに
初トライ!うまい!うますぎる!
そして翌日は母の要望で外へあっちこっち花を求め
探検をするというミッション
結局、4,5時間ほどほぼ外で過ごし、直接花とも
触れ合い家に戻りました。
衝撃でした。
妹をみてみると目はいつものように白目も黒目も綺麗なまま
鼻もグズグズしていない声も鼻声が治ってる!
「今日花粉どう?目痒くない?」私
「あれ?大丈夫だね、少し痒いかな
でも大丈夫」妹
「レンコンすごくね!!」二人
私がこれまで花粉症になっていなかったのは
ひょっとするとレンコンの助けもあってのことかも
しれないと本当に思いました。
ぜひ、試してみてくださいね!
レンコンの調理法は何でもいいと思います。
今回はすりおろしたコロッケでしたが
普段はもっぱらきんぴらでたまにサラダにしたり
煮物にしたりなのでね。
本日はレンコンの威力についてでした!
当時私は何もかもが嫌になっていて
あまりに色んなことが次から次へとやってきて
ああ、またか
どうしてこの家には平和がこない?
どうしていつも私はこんなんなんだ?
どうしていつも誰かが壊れる?
呪われてんのか?
本気でそう思うときがありました。
もうこれ以上どうすりゃいいの、神様
私は助けてあげられない
でも自分のことも助けることができない
私も、家族も絶望するためにここへ来たのでしょうか
私は自分が発狂してしまいそうで怖いです。
神様助けてください。
発狂寸前の私を未然に繋ぎ止めていたのは
「愛する人達、決して自分で復讐をしてはいけません
復讐は神のよしとすることだからです。」
毎日毎日この言葉を頼りに我慢の日々でした。
いつか救いがあるだろう
いつか助けがあるはずだ
でもとうとう私は発狂してしまいました。
そこで怒りが放出された私は
むき出しになった悲しみの海とでもいうのでしょうか
その海の中で溺れるように悲しみに沈んでいきました。
笑っていても、心は無感情状態のようになっていました。
そんなある日
雨上がりの朝出勤のため家を出ると濃霧で幻想的な
世界になっていました。少し霧がはれてミストのような
霧雨になりました。
ぼんやりと自転車をこいでいたら、ひらひらとなにかが
纏わりつくようにとんできました。
ハンドルを握った手元やペダルを漕ぐ足元に
白いモンシロ蝶が2匹フワフワヒラヒラと
楽しそうに、纏わりついて遊んでいるように。
蝶々がすごく可愛いいと思いました。
「でもどうして私のところへ来てくれたんだろう」とも思いました。
その蝶々が私から離れ眼の前の小さな茂みに
なっている方へ舞っていきました。
中央は背の高い草がシュッと生えていて
周りを白い花が囲んでいて更にその周りや地面を
霧雨なのか霧なのか白く曇っていて
蝶々はその草花の周りを楽しそうにヒラヒラと
舞っていたんです。そばに来たのは白いモンシロ蝶でしたが
草花の周りを舞っていていたのは白と黄色のモンシロ蝶
なんてかわいいんだろう、なんて綺麗なんだろうと
心の底から感じたその時、嬉しいと思いました。
美しいものをみて素直に綺麗だなと思え
可愛いものに純粋に可愛いと思うことができたこと
そう感じることができたそのすべてに感動して
本当に嬉しく、心が喜びを感じていました。
心の底から湧き上がってくる嬉しいという思いに
「神様、ありがとう」
「私に心をありがとう、嬉しいです」
その瞬間です、この嬉しい気持ち、この喜び、
ありがとうしかでてこない。
「これが感謝だ」と悟った瞬間でした。
私に感謝を教えてくれたのは
物でもでもなく、人でもなく、運の良さでもなく
ただ美しいものを見た時にそれをそのままに感じる
心や、そこに在ったすべての生命
そうして私の心は復活し
感謝の法則を体験することとなりました。
それから、神の復讐に関して誤解を招かないために
その後私が感じたことを少し書いてみます。
神の復讐は本当にすごいと思いました。
この世界の復讐と違って
明るくて優しくて誰も傷つかない傷つけない
でもみんなが困っていたことを
まるっと消し去ったとでもいうのか
考えもつかないほど平和的解決でした。
というか、当時私を含めた問題のほぼ全てです。
一時的な対処とかひとまず的なものではなくて
私達はこの時をきっかけにというか
なんというか、明らかに今も良い方に進化していて
それは今もずっと続いています。
ただ、感謝の法則もあります。
一概にこれとはいいきれませんが。
困ったときはやっぱり神様が一番頼りになります。
感謝は愛の属性なので、神の心の中に入るには
一番良いのかもしれませんね。
今日もお付き合いくださりありがとうございます。
感謝!!
私はこの人生から抜け出そう
もうこんな生き方も
自分も嫌だと本気で思うようになり
そこで出会った本は、ウォレス・ワトルズの
確実に金持ちになる引き寄せの法則だった。
ドキドキ・ワクワクしながら読み進んだ。
内容がその時の自分にはとてもわかり易くて
希望で胸の中が満タンになる頃
とんでもないキーワードが出てきた。
「感謝」だ。
その二文字をみてもう無理だと
諦めた。
その頃もそれ以前も、いつからか
お前は感謝が足りない!
感謝せいっ!とずーっと言われ続け
なんで?
ありがとうっていってんじゃん
それの何がいけない?
感謝ってなんなんだ?
感謝って自発的なものじゃないの?
というループにハマっていて聞きたくもない
言葉でした。
本当にやさぐれてた時期でした。
幼稚でもありました。今思うと。
汚れちまってたんですね、心が。
でもどうしても、その「感謝」を
乗り越えなくてはならないという
気持ちのほうが勝ってきて
その章を読み切ることができ
最後まで読み終えることができました。
1,2ヶ月ぐらいかかったかもしれません。
「感謝」アレルギーで。
そして、「感謝には感謝の法則が働く」
心はこの一文に釘付けになり
どうしてもその法則を体験してみたくなったのです。
それには、わからなくなってしまった感謝を
もしくは本当に私にはないかもしれない感謝を
知らなければならなかった。
これより夕飯の支度に入ります。
続きはまた🌈
ゆるすかゆるさないか
ゆるせるかゆるせないか
ではなく
ゆるす気があるのか、ゆるす気がないのか
ゆるしたい気持ちがあるのか
ゆるしたくない気持ちなのか
その問題をハイヤーセルフに
差し出しだしたいのか
差し出したくないのか
ハイヤーセルフにこの問題を
取り上げてほしいのか
自分で持っていたいのか
ゆるしの取り消しは
目に見えない存在
ハイヤーセルフの領域で行われることで
私達にはゆるしの取り消しを行うことはできない。
ゆるした先に見るものは
自分が差し出して
聖霊が取り消した後に見える。
それには、少し時間を感じるかもしれない
でも選び続ければ、
必ずそれは取り上げられていたことがわかる。
そして必ず解除してくれる。
天の父はその問題が大きいとか
小さいかは関係なく問題のすべてから
助けてくれる。
それが私達のハイヤーセルフの任務。
選び間違えたことを悔やんでいると
次のステップに移るのに
時間がかかってしまう。
仮に選び間違えたと思えることにも
自分が選び直すレッスンがそこにあるとすれば、
それは選択の失敗とはならないのでは
ないだろうか。
私には目に見えない存在が、ゴリゴリの合理主義に
思えるときがあります。
ただ、そこには愛があり
そして、何も無駄にしない。
選ぶ内容は常に
真実(実相)か現実(幻想)か
本当(真理)のことを知りたくはないか知りたいか
この先に何をみたいのか
本当の自分を思い出したくはないか思い出したいか
これをそのきっかけにしてほしいのかしてほしくなのか
これらの言葉がすべて一つの言葉に要約されて
ゆるすのかゆるさないのか。
そしてやはりゆるしを選ぶのですが
私達にできるのはゆるしを選ぶことまでなのです。
ゆるした先(取り消し)は目に見えない存在の
仕事なのですね。
なので、ゆるす気があるのかどうかを
本当にこれだけを問われているのだなと
つくづく思います。
私がまだ思春期の頃は
堪忍袋に詰め込まれた我慢が
爆発するときその威力が
自分の心を破壊するくらい
一瞬で冷めてしまっていました。
それは自分でもどうしていいのか
何が起こったのかわからなくなるくらい冷めてしまい
相手に対して一切の感情がわかなくなり
自分の心から相手を切り捨ててしまうので
もう怒ってもないけど
自分の中にもう相手はいない
なので結果としてゆるすことができず
関係の修復にどえらい時間がかかりました。
それでも、不本意でもゆるしを選ぶ状況はあり
ゆるした後は必ず
ゆるせたことに感謝するような気持ちになる
小さな目覚めの連続もありました。
でも、ある時、我が家にとんでもない事件というのか
問題が起きました。
この表現は
正しくないかもしれません。
家族は、それを私が知ったら激しく怒るだろう
激しく悲しむだろうと隠そうとしましたが
私はそのことにすぐに気づいてしまい
家族に詰め寄りました。
気付いたとおりでしたが、そのシーンが
自分がそこにいたかのように浮かびました。
本当に見えてしまったのです。
一瞬何かが自分の中にすごい勢いで込み上げて
来たのですが、その瞬間、私はまるでスライドしたかの
ように怒りでも感情でもなく
状況の正しい理解がもたらされ、みんなは私が怒ると
思っているけど、もうそんな責め合いなんかしている場合
じゃない、そんな余裕も時間も一切ないというものでした。
それをきっかけに気づいたことは
怒りって時間に対する余裕なんだということでした。
状況は怒っている場合ではないし感情に浸っている
場合でもない。本当にそれどころじゃない。
つーことは、これまで私が体験してきたものは
私はもう本当にこんなのやだって思っていたのに
心の中ではそうじゃなくて余裕があると思っていたのか?
その感情を選べるって余裕があるということなの?
嫌なのにまだやろうとしているわけか?
マジかいや〜というものでした。
そして私はこれを聖霊のゆるしと認識しているのですが
その瞬間に聖霊が与えてくれるというか
聖霊が入ってくるというのか
聖霊が加わるというのか
なんと表現したら良いのかわからないのですが
何を選ぶのか
自分が何を選んでいるのか
常に何を求めているのかが
とても重要なことのように思えるのです。
平和がいいのか競いたいのか
私達の日常生活の中には
あると思うのです。
会社の中にも道端にもスーパーの中にもコンビニの中にも
どっちを見たいという選択が。
そして我慢では平和は作れません。
譲歩と我慢も違います。
「今日だけは怒るな」
世界に対する見方を変える
譲れれる気持ちはどういう心のなかにあるのか
この思いは何から派生しているのか
この気持ちは私に何を訴えているのか
このやるせなさをどう表現したらいいのか
探す。必ずすべてが幸せにまあるくおさまる方法が
自分の中にあるはずだから。
長文になってしまいました。
こんな長文に
お付き合いくださりありがとうございます。