臼井式レイキの教室です。マンツーマンですので、心ゆくまでレッスンをして頂くことができます。
レイキヒーリングも行っています。
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罪は、「愛の欠如」(テキスト第一章・Ⅳ・3)と定義さ
れる。愛は存在するすべてであるから、聖霊からみれば、
罪とは罰せられるべき悪ではなく、訂正されるべき間違い
である。力不足、弱さ、もの足りなさといった私たちが抱
く感覚は、幻想の世界全体を支配している「欠乏の原理」
への強い執着に由来している。そうした観点から、私たち
は自分に欠けていると感じているものを他者の内にさがし
求める。私たちが他者を「愛する」のは、自ら何かを手に
入れるためである。実はそれこそが、この夢の世界におい
て愛だといわれているものの正体である。これ以上の大き
な間違いはない。なぜなら、愛には、何かを要求するなど
ということはできないからである。
心だけが真につながり合うことができるのであり、神が
ひとつにつないだものは、いかなる人間も引き離すことは
できない。(テキスト第十七章・Ⅲ・7)しかし、真の融
合はキリストの心のレベルにおいてのみ可能であり、実際
には、それは一度も失われたことはない。「卑小な自分」は、
外界からの承認、外界における所有物、そして外界におけ
る「愛」により、自らを補強しようとする。神の創造した
自己は何も必要としない。それは永遠に完全であり、安全
であり、愛され、愛するものである。それは獲得するので
はなく分かち合おうとし、投影するのではなく延長しよう
とする。それは何も必要とせず、豊かさを相互に自覚して
いるので他者とつながることを望む。
この世界の「特別な関係」は、破壊的で利己的、そして
幼稚なほど自我中心的である。しかし聖霊にゆだねられた
とき、そうした関係は、地上で最も神聖なものとなり、天
国へ戻る道を指し示す奇跡となる。この世界は、「特別な
関係」を除外という究極の武器として、また分離を実証す
るものとして用いる。聖霊はそれらを、赦しの完璧なレッ
スン、夢から目覚めるための完璧なレッスンへと変容させ
る。その一つ一つが、知覚が癒され、誤りが訂正されるた
めの機会である。そのどれもが、他者を赦すことにより自
分自身を赦すための新たなチャンスである。さらには、そ
の一つ一つが、聖霊を、そしてまた神の想起を新たに招聘
するものとなる。
知覚は肉体の機能であり、したがって、自覚を制限する
ものに相当する。知覚は肉体の目をもって見、肉体の耳を
通して聞く。それは肉体が作り出す限られた反応を引き起
こす。肉体は概して自らの動機によって動く独立したもの
であるかに見えるが、実際は、心がもつ意図に応答するだ
けである。心が肉体を何らかの形の攻撃に使いたいと思う
なら、肉体は病気や老化や衰退の餌食となる。一方、心が
聖霊の目的を受け入れるなら、肉体は他者と 親 交 をす
るための有用な手段となり、必要とされる間は傷つくこと
なく、その役割が終われば静かに横たえられるものとなる。
肉体はそれ自体ではよくも悪くもない。これはこの世界の
すべてのものごとと同様である。それが自我のゴールのた
めに使われるか聖霊のゴールのために使われるかは、ひと
えに、心が何を望むかにかかっている。
親交 ➔ コミュニケーション
by 奇跡講座 上巻 まえがきより P.06〜P.07
知識と知覚の各々から、あらゆる点で正反対の二つの思
考体系が生じる。知識の領域では、神から離れて存在する
想念はない。神とその被造物は一なる意志を共有している
からである。しかし知覚の世界は、相対立するものごとや
複数に分離した意志を信じる信念によって作られており、
そうした意思はお互いの間および神との間で絶え間なく葛
藤している。知覚が見聞きするものはあたかも実在するか
に見えるが、その理由は、知覚する主体である本人の願望
に一致するもののみが自覚されるからである。これが、幻
想の世界を作り上げる。その世界は、それが実在しないと
いうまさにその理由ゆえに、絶え間ない防衛を必要として
いる。
知覚の世界に捕らえられているとき、あなたは夢の中に
閉じ込められている。助けがなければ、あなたがそこから
逃れることはできない。なぜなら、五感があなたに見せる
ものはすべて、その夢の実在性を証言するだけだからであ
る。神は、そこから抜け出す唯一の道にして真の助力者で
ある答えを与えた。二つの世界を媒介することが、神の声
すなわち神の聖なる霊のはたらきである。聖霊にこれがで
きる理由は、聖霊が一方では真理を知っており、他方では、
私たちの幻想を信じ込むことなくそれを幻想と認識するか
らである。聖霊の目的は、私たちの思考を逆転させ、私た
ちが学んでしまった間違いを白紙に戻す方法を教えること
によって、私たちが夢の世界から脱け出すのを助けること
である。この思考の逆転をもたらすために聖霊が用いる大
いなる学びの補助手段が、赦しである。ただし、『奇跡講座』
はこの世界について独自の定義をしているのと同様に、何
が真の赦しであるかについても独自の定義をしている。
私たちの見ている世界は、自らの内なる判断基準を映し
出しているにすぎない。すなわち、心の中にある支配的な
想念や願望や感情の反映である。「投影が知覚を作り出す」
(テキスト第二十一章・序・1)のである。私たちは最初
に自分の内を見て、どのような世界を見たいのかを決め、そ
れからその世界を外に投影し、自分が見ているままにそれ
を真理とする。私たちは自分に見えているものが何である
かという自分の解釈によって、それを真実にする。もしも、
怒り、攻撃衝動、何らかの形で表われる愛の欠如といった
自分の間違いを正当化するために知覚を用いているなら、
私たちは邪悪さ、破壊、悪意、羨望、絶望の世界を見るこ
とだろう。こうしたすべてを赦すことを、私たちは学ばな
ければならない。それは、私たちが「善良」で「情け深
い」からではなく、私たちに見えているものが真実ではな
いからである。私たちは歪んだ防衛により世界を歪曲して
しまったので、本来はそこに存在しないものを見ている。
知覚上の誤りを認識することを学ぶとき、私たちはまた、
そうした誤りを超えたところを見ること、すなわち、「赦
すこと」を学ぶ。同様に私たちは自分自身をも赦し、歪曲
された自己概念を超えて、神が私たちの内に、私たちとし
て創造した自己を見る。
by 奇跡講座 上巻 まえがきより P.05〜P.06
◆◆◆ 教義
実在するものは脅かされない。
実在しないものは存在しない。
ここに神の平安がある。
『奇跡講座』はこのように始まる。実在するものと実在
しないもの。すなわち知識と知覚を、根本的に区別する。
知識は真理であり、それは愛すなわち神の法である一なる
法則のもとにある。真理は不変であり、永遠にして明確な
ものである。真理が認識されないということはありえるが、
変更されることはありえない。真理は神が創造したものす
べてにあてはまり、神が創造したもののみが実在する。そ
れは時間もプロセスも超越したものであるから、学ぶこと
ができるものではない。真理に対極はなく、始めも終わり
もない。真理はただ在るのみである。
一方、知覚の世界には時間や変化があり、始めと終わり
がある。この世界は解釈に基づいており、事実に基づくも
のではない。それは誕生と死のある世界であり、欠乏、損
失、分離、死を信じる信念の上に築かれている。それは賦
与されたものではなく、学ばれたものであり、その知覚が
重視する対象は選択され、その機能は不安定、その解釈は
不正解である。
by 奇跡講座 上巻 まえがきより P.04〜P.05
苦痛は神からのものではない。なぜなら、神は攻撃を知らず、
神の平安は静かにあなたを包んでいるからである。神の中に
葛藤はないので、神はきわめて静かである。葛藤こそが諸悪の
根源である。それは盲目なので、攻撃している相手が見えない。
だが、それは常に神の子を攻撃する。
そして神の子とはあなたのことである。
Text 11‐Ⅲ‐1‐5
長期保存された気持ちはいつかやがて必ずこの世界に表現される。
心の中に隠そうとしていること、抑え込んでいる気持ちが、
苦しいと感じるなら、今がそれを解放するチャンスだ。
抑圧が投影になりこの世界に表現される時には、
自分が何を思ってこうなったのか、どこにそれがあるのかが
自分の信念の一部となっていて、わからなくなってしまう。
宇宙はあなたを愛している。
神はあなたに沢山のあなたと同じ人を与えている。
何一つ一人で抱え込まなくていいように。
聖なる霊は、貴方の本当のことをいつも見ている
知っている。
人の生命の核を神が創造したなら、人の心に穢れなど
存在するのだろうか?