まず初めに、自分で自分を癒せるようになること。そして、その癒しを自分以外にも行えるようになること。
reikiで心を癒せば体が癒され、体を癒せば心も癒される。癒された先にあるのは、本来の自己で自由に自然体で過ごせる自分。全ディグリーを2日間で「伝授」するワークショップを首都圏各地の会場で開催します。 1名様からお受け付けしています。会場となるサロンは、ご希望があれば、希望地にそってご用意いたします。
西洋式臼井レイキの出張式教室です。お気軽にお問合せ下さい。
必ず抜け出せる
必ずそこから抜け出せることだけが
決まっている。
状況が絶望的?
心境が絶望的?
それでも必ず抜け出せる。
状況は絶望を作れない
心境の絶望は自分を見失ったときにあらわれる。
必ず抜け出せる。
自分を思い出そう
本当の自分を取り戻そう
臼井靈氣には五戒の教えがある。
招福の秘法 萬病の霊薬
今日だけは 怒るな
(今日だけは )心配するな
(今日だけは )感謝して業を励め
(今日だけは )人に親切に
この教えの発症云々は置いておき
この教えはそれを知ったが学習者が
自ら理解を求め自分に問いかけて
いくためなのか?
どの教室でも、これについて深く掘り下げる
教室は少ないように思う。
という私の感想はさておき
「怒るな」
については五戒を知らない人でも
怒りが自分を結局苦しめてしまうことは
みんな暗黙の内にわかっている。
怒りは感情だ。
感情は思考との連携に成り立つので
常に正しいとは限らないし、
ただの、お知らせ、サイレンのようなものでもある。
ただ怒りは、怒っている人の心を更に傷つけてしまう。
それって、本当なのか?
それを信じている人がそうなるのではないか?
と思いたくなるほど、自我は怒りを手放さない。
でも、本当に怒りには傷を抉る、開く効果がある。
私はご飯を作っているとき、たまに包丁で切ったり
小さな火傷をすることがある。
私は靈氣師でもあるのでそんな時はすぐに
鍛錬のとき!!と言わんばかりに
臼井レイキの技法を使う。
そうすると、本当に、痛みは消え血が止まり、
切れたり、火傷をしたといえばわかる跡は見えても
傷口は閉じている。
しかし、これは少し深く切ったりしていた場合
翌日も翌々日もその後が消えていない。
そして、その最中に、怒りの属性にある感情と
一体化すると、また痛みだし、勝手にパカっと
開いてマジかと思うことがある。
以下はこの事例の最新版です。
唇が乾燥し、リップクリームでは剥がれかけた
唇の皮が治まらず、皮をむいた。
少し厚めにむけたけど血はでなかった。
それがうっかり、自分が正しいと思っていたことが
怒りの正当性ということにも気付かないで
その正しさに夢中になっていたら翌々朝
唇の皮を向いたところに血の塊になっていた。
オーぃマジか〜でした。
小さな体験ですが、確かな答えでした。
怒りは怒りからやってくるのではなく
悲しみからやってくる。
悲しみと怒りは同じ属性です。
本来は囚われるはずのない感情だ。
自分を悲しませるのは本当に自分しかいない。
私達は本当の自分を知ってはいない。
自分が知っている自分は自身の採用した概念で
つくられている。
本当の自分を取り戻そう!
現実を当たり前にしか感じない
ときめかない
情熱?
なんのコッチャ
ワイドショーを觀ても
誰かと話していても
自分の中に不服を感じても
当たり前
とーぜん
この世界にどっぷりハマってしまうと
自我の世界観の中では物わかりのいい
よく言うことを聞く従順な私となってしまう。
でも、この現実を当たり前として信じて疑わないのは
確かに当然と感じてもおかしくはない。
この現実は、歴史や誰かがつくったのではなく
自分が造り出しているものだから。
心は嘘をついたり誤魔化されたりすることを
選んでしまうこともあるけれど
心は馬鹿じゃない
全部おぼえているし、わかっている。
心はこれを造り出しているのが
誰なのかなぜなのか全部わかっている
心にはそういう層がある。
私達は分離しているのでそれぞれという
概念がある。
そのためそれぞれがそれぞれの意識で
自分の意識の中にもう一度生まれるとを
選んできている。
自分にとってより良い選択をし直すために。
すべてを見渡したうえで導ける存在と歩むのか
この世界の必要を満たすこと以外見えない存在と
歩むのかその選択もすべて自分に任されている。
それは、自分にとって正しい選択をするだろうと
私達は完璧な信頼しか持たれていないから。
これは、誰もがみんな一人もこぼれることなく
もたれている信頼だ。
自分のほんとうの自覚を取り戻す道場へ
入門しに来たように感じました。
練習内容も、感じ方も
関わり方も、全部自分次第。
厳しいのが好きですか?
優しいのが好きですか?
楽しいのは好きですか?
今をどう感じていますか?
聖書には天に宝をたくわえなさい
という教えがある。
仏教観では徳を積む
という教えがある。
どちらも詳しいことはわからないけど
徳を積むというというのは
日本人には馴染みのある概念だと思う。
誰かや社会に対して喜ばれるような
思い、行い。
仮にそれが誰から感謝されなくても。
だけど、誰かや、社会が自分になにかを
してくれたら、
そんなの頼んでないよ!
そっちが勝手にやったんじゃない!
って思う心境のとき
このときって、天に宝を備えることから
徳を積むことから遠ざかっているように
思う。
なぜなら、感謝を伝えることも
天に宝を備えることや
徳を積むことが同じだと思うから。
仮にその時、心が言葉に追いついていないとしても
その言葉、その微笑み、その会釈すべてが
相手の方に報いることになるから。
どちらも、形は違うけど同じなんだと思う。
だから、心は言葉に包んで送り届けよう!
あなたのそれで人の心がどれだけ喜ぶか
どれだけ癒やされるか
どれほど力が湧いてくるか
それを思い知ってほしいです。
あなたは、Powerという活力を本当に持っている。
皆様、いかがお過ごしでしょうか
私はこれから瞑想に入ります。
15分ぐらいでしょうか。
瞑想は続けなければ意味がないとか
そんなことはないかなと思います。
2,3回行うだけでも、感情の起伏が
変わってきます。
社会で感情的にキツイなと感じている方などは
試してみる価値があるのではないかと
思います。
ではでは🌛