臼井式レイキの教室です。マンツーマンですので、心ゆくまでレッスンをして頂くことができます。
レイキヒーリングも行っています。
教室もヒーリングサロンも首都圏各地の中から選んでいただけます。
自由とは何なのだろう
時間の制約から開放されることか
経済の制約から開放されることか
健康診断の結果から開放されることか
漠然と買ってしまう衝動から開放されることか
気がつくと何かを食べている情動から開放されることか
人の顔色を見てから自分を変化させる習慣から開放されることか
あなたにとっての自由とはなんですか?
私はようやっとこ、自分の不自由さを認められるように
なってきたような気がします。
私が不自由になっていることを見過ごしてきた
部分の一部に、イマジネーションがあります。
想像が働かなくなっていました。
イマジネーションの中でも時間や距離やお金のことなど
数字に囚われ、身体の制約に囚われ
イマジネーションの中なのに現実がある!
あるわきゃないだろう!えー
そんな馬鹿な話ある〜?
イマジネーションの中で数字に囚われるってなに〜
てな感じで意気消沈。
そして、対処することばかり先行して考えてしまう
なんと正しいことでしょう!!
そう、これは自我にとってはとても正しいのです。
ただ、対処だけなので、問題に絆創膏を貼って
OK!終了!!
問題起きたらまた呼んで!
絆創膏貼るから!!
体が自由だからこの世界が楽になるのではなく
心に自由が戻ってそれが体に反映されるから
この世界が楽になる。
楽で生きるには自由を取り戻さなくてはならない。
それは、ゆるすかのかゆるさないのか
愛で生きるのか恐れで生きるのか
決意決断だけすれば、後は全部もたらされる。
自我は、導き手としてもヘルパーとしても
頼れるものではないけれど
私達の本当のところには、現実のからくりに
一切騙されず、躓かないすごいのがいる。
皆様はどちらに導かれるのが良いですか?
例えそれががむしゃらに見えても
無我夢中になって
本当の自分のシナリオを生きてみたいと
ああ、本当に神様いるんだって感じてみたいと
その愛の中で活きたいですと
それが本当の欲求になれば
それは必ず与えられる。
まだ私がレイキを始める前
有名な気功師の先生がすべてのものは振動している。
その振動を気功は正しい状態に整える。
というような事を話していて気功で周波数を調律
できるなんてすごいなーと思ったことがある。
自分でレイキをするようになってからは
ますます周波数というものを省いて考えることが
出来難くなった。
そして思いと周波数がこれほどまでイコールで結ばれている
のかと思わざるを得ない日々。
それが、体や現実に表現される。
タイトルは波長としましたが
とにかくルンルンしよう!
という呼びかけです!
安心でも休息でもカラオケでも散歩でも
なんでもいい、文句いっぱい書いてビリビリ破くのだって
自分が本当に欲することなら
小さいか大きいかも関係ない
でもそうしているうちに
周波数が整い、波長が良くなり
ぶっとい安心感を体でも感じられるようになる。
気持ちが明るくなって気分も良くなる。
そうなると物事の見え方も人に対する思いも
どんどん変わる。
現実が始める力を持っているのではない
現実が固定する力を持っているのではない
外側からは何も始まらない
内側からすべてが始まる。
今、現状の現実がどうであっても関係がない。
すべては内側から始まる。
そして、一日5分でも10分でも
心を静けさに集中させよう
自然は真空を嫌うというけれど
自我は心の静寂を真空を本当に嫌いらしい。
ということは。。。。。
その静けさの中に自我が見つけてほしくないものが
あるってことですよね!
ぜひ、見つけてみてくださいね!
小さなことだけど、得るものはでかい!
備えは、これから起こるであろうことに
もしかするとこれから起こるかもしれないことに
もしそんな事が起きたら大変なことになるだろうから
ということに
防衛の思考からの行いだ。
ただ、これが安心材料になるのであればそれはそれで
この行いにはなんの問題もない。
ただ、考え方の中には問題がある。
防衛は身を守る概念だ。
守るということは争いや危険があるという事になる。
その心には既に争いと危険が「在る」「存在している」
状態にあり、平和とは停戦であり、穏やかな光景は
地球がすやすや眠っているから。でも目を覚まし
大あくびでもしたらまたこの光景は壊されてしまう。
自然本来の力は脅威でその力は破壊的だ。
この心は、本当に平和だろうか
この心は、本当に穏やかだろうか
この心は、自分の心にどれだけの破壊力や
どれだけの奇跡が自分の中に眠っているかを知っているだろうか
自分が本当はどういう存在なのか
知っているだろうか。
供えは、神に供える
心の中の神に供える
自分の神に供える。
時に懺悔とともにこう在りたいという思いかもしれない
時にすごい嬉しいありがとう!という感謝かもしれない
時に返事の来ない交換日記のようかもしれない
時に与えられていることへの感動かもしれない
私達は目に見えない方から始まっている
肉体の視力には映らない方から始まっている
私達の人間として生きている時もこの法則は
変わらない。
自分のこれからの未知なる恐れを
自然のせいにするのはおかしい。
それは、集団投影のほかならない。
神は子のどの部分にも期待している
どの子ども部分にも信頼している
特別なこの子という概念は存在しない
神はあなたにしてほしいことが沢山ある
神はあなたと完成したいことが沢山ある
神はあなたに期待と信頼しか持っていない。
ユングの「雨乞い師」の話をご存知でない方は
是非読んでみて下さい。
今はネットでも検索すればすぐにでてきますね。
私達一人ひとりが時に村人ですが
本来は「雨乞い師」の方なのですよね。
ではまた👋
私達は何も信じないで
この世を体験することは不可能だ
必ず何かを知っている、わかりきっている
これを信仰に置き換えてみると
私達は必ず何かを信じている状態で生きている
それは、愛の源か
自我神か
自我は信頼がなければ存在できない
信じてもらうために何でもする
自分で考えて!
そうなる前に早く早く!
そんなこと言ってる場合じゃないよ!
自分でどうにかするしかないよ!
自我のスペースを保つためには
心と頭を自我論で一杯にしておかないと
信者さんが消えてしまうから!!!!
自我は手段方法を持っていない
自我は信頼を獲得するために絶えず努力をしている。
そうはいっても、うっかり信じているときがある。
でもそれはなんの問題にもならない。
それに気づいたらそれは間違いだと認めることができる。
私達はいつでも選び直すことができるから。