臼井式レイキの教室です。マンツーマンですので、心ゆくまでレッスンをして頂くことができます。
レイキヒーリングも行っています。
教室もヒーリングサロンも首都圏各地の中から選んでいただけます。
制限や節約を続けていたり
人に染まりやすかったり
自分に小さな喜びや情熱を
与えず今は我慢や先延ばしにしていると
記憶喪失ならぬ
周波数喪失となってしまう事がある。
自分の周波数から離れすぎると
何かに対してなんかよくわかんないとか
別になんでもいいとか
情熱が湧いてこない
ワクワクが来ないみつからない
何をしても無駄なように感じたり
虚しく感じたままだったりしてしまう。
本当に本来の自己を見失った状態だ。
自分がどうしたらワクワクするか
見失っているなら
誰かに対してもて成すように
自分をもてなしてみてください。
優しく大切に自分の心をを慈しもう!
私が私から離れないように。
一度そうだと思い込むとそれが間違いで
あっても正すのが難しいことがある。
思い込む → 信じてしまう
そうだと思って確定してしまう
思い込むには(信じてしまう)には
その前になんらかの個人的な定義があるはずだ。
肉体の機能優勢であると
自分はいつもこういう時こうだったから
今回もこうに違いないと疑うこともなく
瞬で定義し判断し決定してしまう。
自分で編み出した定義はまるで水面下で地道に
雪を踏み硬め氷にしていくような内面の作業だ。
放っておくと更に厚く頑丈になっていく。
そしてこの定義の氷は見張りながら防衛しながら
であればそれなりにつつが無く安全に歩くことができる。
思い込みが強く働く出来事はみな確信からくるものではなく
定義により証拠とし認識され「やっぱりね」と確定したものだ。
こんな証拠があるのだから絶対にそうだ!と確定(判断)し
決断をした。
そしてその決断の積み重ねが自分の個人的な
コンセプト(概念)となってしまう。
私達はこのコンセプトをベースに考えている。
このコンセプトは、自分がたゆまぬ見張りと防衛により
証拠を集めて造ってきただけのことはあり例えそれを
気に入っていなくても信じている。
というか既に信じてしまっている。
そして、この現実というスペースは私達の本来の強さを
弱めることで成り立っている。
本来の私達はとても強い
見張りも防衛も戦も必要としない。
だから、個人的なコンセプトはスペースを維持し
保つには欠かせない。
私達は誰もがみんな一様に幸せを与えられている。
それを多種多様に体験していく。
自分で造ったコンセプトは自分に試練を課してしまう。
でもそれは自分で固めた氷に過ぎない。
その氷は自分次第で溶かすことができる。
確かパンドラの箱の底にあったのは「希望」だ。
自分が間違っていたことを本当に認める意欲が
持てたらきっと希望がやってくる。
きっと希望が見えてくる。
決めつけデカのCMを觀すぎでしょうか
こんなことが無性に書きたくなりブログにアップしました。
私達も決めつけデカ辞退したままでいよう!
生きるのが楽になる方がいいもんね!
必ず抜け出せる
必ずそこから抜け出せることだけが
決まっている。
状況が絶望的?
心境が絶望的?
それでも必ず抜け出せる。
状況は絶望を作れない
心境の絶望は自分を見失ったときにあらわれる。
必ず抜け出せる。
自分を思い出そう
本当の自分を取り戻そう
臼井靈氣には五戒の教えがある。
招福の秘法 萬病の霊薬
今日だけは 怒るな
(今日だけは )心配するな
(今日だけは )感謝して業を励め
(今日だけは )人に親切に
この教えの発症云々は置いておき
この教えはそれを知ったが学習者が
自ら理解を求め自分に問いかけて
いくためなのか?
どの教室でも、これについて深く掘り下げる
教室は少ないように思う。
という私の感想はさておき
「怒るな」
については五戒を知らない人でも
怒りが自分を結局苦しめてしまうことは
みんな暗黙の内にわかっている。
怒りは感情だ。
感情は思考との連携に成り立つので
常に正しいとは限らないし、
ただの、お知らせ、サイレンのようなものでもある。
ただ怒りは、怒っている人の心を更に傷つけてしまう。
それって、本当なのか?
それを信じている人がそうなるのではないか?
と思いたくなるほど、自我は怒りを手放さない。
でも、本当に怒りには傷を抉る、開く効果がある。
私はご飯を作っているとき、たまに包丁で切ったり
小さな火傷をすることがある。
私は靈氣師でもあるのでそんな時はすぐに
鍛錬のとき!!と言わんばかりに
臼井レイキの技法を使う。
そうすると、本当に、痛みは消え血が止まり、
切れたり、火傷をしたといえばわかる跡は見えても
傷口は閉じている。
しかし、これは少し深く切ったりしていた場合
翌日も翌々日もその後が消えていない。
そして、その最中に、怒りの属性にある感情と
一体化すると、また痛みだし、勝手にパカっと
開いてマジかと思うことがある。
以下はこの事例の最新版です。
唇が乾燥し、リップクリームでは剥がれかけた
唇の皮が治まらず、皮をむいた。
少し厚めにむけたけど血はでなかった。
それがうっかり、自分が正しいと思っていたことが
怒りの正当性ということにも気付かないで
その正しさに夢中になっていたら翌々朝
唇の皮を向いたところに血の塊になっていた。
オーぃマジか〜でした。
小さな体験ですが、確かな答えでした。
怒りは怒りからやってくるのではなく
悲しみからやってくる。
悲しみと怒りは同じ属性です。
本来は囚われるはずのない感情だ。
自分を悲しませるのは本当に自分しかいない。
私達は本当の自分を知ってはいない。
自分が知っている自分は自身の採用した概念で
つくられている。
本当の自分を取り戻そう!
現実を当たり前にしか感じない
ときめかない
情熱?
なんのコッチャ
ワイドショーを觀ても
誰かと話していても
自分の中に不服を感じても
当たり前
とーぜん
この世界にどっぷりハマってしまうと
自我の世界観の中では物わかりのいい
よく言うことを聞く従順な私となってしまう。
でも、この現実を当たり前として信じて疑わないのは
確かに当然と感じてもおかしくはない。
この現実は、歴史や誰かがつくったのではなく
自分が造り出しているものだから。
心は嘘をついたり誤魔化されたりすることを
選んでしまうこともあるけれど
心は馬鹿じゃない
全部おぼえているし、わかっている。
心はこれを造り出しているのが
誰なのかなぜなのか全部わかっている
心にはそういう層がある。
私達は分離しているのでそれぞれという
概念がある。
そのためそれぞれがそれぞれの意識で
自分の意識の中にもう一度生まれるとを
選んできている。
自分にとってより良い選択をし直すために。
すべてを見渡したうえで導ける存在と歩むのか
この世界の必要を満たすこと以外見えない存在と
歩むのかその選択もすべて自分に任されている。
それは、自分にとって正しい選択をするだろうと
私達は完璧な信頼しか持たれていないから。
これは、誰もがみんな一人もこぼれることなく
もたれている信頼だ。
自分のほんとうの自覚を取り戻す道場へ
入門しに来たように感じました。
練習内容も、感じ方も
関わり方も、全部自分次第。
厳しいのが好きですか?
優しいのが好きですか?
楽しいのは好きですか?
今をどう感じていますか?