reiki ikowaselu

まず初めに、自分で自分を癒せるようになること。そして、その癒しを自分以外にも行えるようになること。
reikiで心を癒せば体が癒され、体を癒せば心も癒される。癒された先にあるのは、本来の自己で自由に自然体で過ごせる自分。全ディグリーを2日間で「伝授」するワークショップを首都圏各地の会場で開催します。             1名様からお受け付けしています。会場となるサロンは、ご希望があれば、希望地にそってご用意いたします。
西洋式臼井レイキの出張式教室です。お気軽にお問合せ下さい。

2025.04.19 Saturday

ブログ

2025-03-17 11:25:00

何を選ぶか

 

選び間違えたことを悔やんでいると

 

次のステップに移るのに

 

時間がかかってしまう。

 

仮に選び間違えたと思えることにも

 

自分が選び直すレッスンがそこにあるとすれば、

 

それは選択の失敗とはならないのでは

 

ないだろうか。

 

私には目に見えない存在が、ゴリゴリの合理主義に

 

思えるときがあります。

 

ただ、そこには愛があり

 

そして、何も無駄にしない。

 

 

 

選ぶ内容は常に

 

真実(実相)か現実(幻想)か

 

本当(真理)のことを知りたくはないか知りたいか

 

この先に何をみたいのか

 

本当の自分を思い出したくはないか思い出したいか

 

これをそのきっかけにしてほしいのかしてほしくなのか

 

これらの言葉がすべて一つの言葉に要約されて

 

ゆるすのかゆるさないのか。

 

そしてやはりゆるしを選ぶのですが

 

私達にできるのはゆるしを選ぶことまでなのです。

 

ゆるした先(取り消し)は目に見えない存在の

 

仕事なのですね。

 

なので、ゆるす気があるのかどうかを

 

本当にこれだけを問われているのだなと

 

つくづく思います。

 

私がまだ思春期の頃は

 

堪忍袋に詰め込まれた我慢が

 

爆発するときその威力が

 

自分の心を破壊するくらい

 

一瞬で冷めてしまっていました。

 

それは自分でもどうしていいのか

 

何が起こったのかわからなくなるくらい冷めてしまい

 

相手に対して一切の感情がわかなくなり

 

自分の心から相手を切り捨ててしまうので

 

もう怒ってもないけど

 

自分の中にもう相手はいない

 

なので結果としてゆるすことができず

 

関係の修復にどえらい時間がかかりました。

 

それでも、不本意でもゆるしを選ぶ状況はあり

 

ゆるした後は必ず

 

ゆるせたことに感謝するような気持ちになる

 

小さな目覚めの連続もありました。

 

 

でも、ある時、我が家にとんでもない事件というのか

 

問題が起きました。

 

この表現は

正しくないかもしれません。

 

家族は、それを私が知ったら激しく怒るだろう

 

激しく悲しむだろうと隠そうとしましたが

 

私はそのことにすぐに気づいてしまい

 

家族に詰め寄りました。

 

気付いたとおりでしたが、そのシーンが

 

自分がそこにいたかのように浮かびました。

 

本当に見えてしまったのです。

 

一瞬何かが自分の中にすごい勢いで込み上げて

 

来たのですが、その瞬間、私はまるでスライドしたかの

 

ように怒りでも感情でもなく

 

状況の正しい理解がもたらされ、みんなは私が怒ると

 

思っているけど、もうそんな責め合いなんかしている場合

 

じゃない、そんな余裕も時間も一切ないというものでした。

 

それをきっかけに気づいたことは

 

怒りって時間に対する余裕なんだということでした。

 

状況は怒っている場合ではないし感情に浸っている

 

場合でもない。本当にそれどころじゃない。

 

つーことは、これまで私が体験してきたものは

 

私はもう本当にこんなのやだって思っていたのに

 

心の中ではそうじゃなくて余裕があると思っていたのか?

 

その感情を選べるって余裕があるということなの?

 

嫌なのにまだやろうとしているわけか?

 

マジかいや〜というものでした。

 

 

そして私はこれを聖霊のゆるしと認識しているのですが

 

その瞬間に聖霊が与えてくれるというか

 

聖霊が入ってくるというのか

 

聖霊が加わるというのか

 

なんと表現したら良いのかわからないのですが

 

何を選ぶのか

 

自分が何を選んでいるのか

 

常に何を求めているのかが

 

とても重要なことのように思えるのです。

 

平和がいいのか競いたいのか

 

私達の日常生活の中には

 

あると思うのです。

 

会社の中にも道端にもスーパーの中にもコンビニの中にも

 

どっちを見たいという選択が。

 

そして我慢では平和は作れません。

 

譲歩と我慢も違います。

 

 

「今日だけは怒るな」

世界に対する見方を変える

譲れれる気持ちはどういう心のなかにあるのか

この思いは何から派生しているのか

この気持ちは私に何を訴えているのか

このやるせなさをどう表現したらいいのか

探す。必ずすべてが幸せにまあるくおさまる方法が

自分の中にあるはずだから。

 

 

長文になってしまいました。

こんな長文に

お付き合いくださりありがとうございます。